嘘がバレてしまったらまた嘘をつけという話

思えばこんな状況になってからもう2か月が過ぎようとしている。

いつも乗る電車の車窓は半分空いて風が入り込んでいて、あれこれちょっと気持ちいいんじゃね?と錯覚させられそうになるが今は雨。流れ込むように雨が入っている車内には何も感じないという顔を無理くりしている人ばかりでお前らは修行僧かと突っ込みたくなってしまう。

 

 

というところまで書いて約一週間経ちました。

早いものでこの頃の疲れた感じも今では可愛いくらいに思えます。

 

日々鬱憤としたものが密かに内に重なっていく感じがよりリアルガチに感じられるようになり、こんな文章を書くよりもっとこの生活環境の下でどれだけ太陽からの光の角度を屈折させて自分に浴びられるようにするべきなのかを考えるべきなんだろうよ。

それでもまた気づいたら忙しない(たいてい酒に酔ってたらればを話して終わってしまう)毎日に言い訳をしながら過ごしていくわけですが。

なんだかんだ言っても仕方ない。このなんだかんだは例えば「自粛期間が完全に終わったら阪和線でアダルト版スタンド・バイミーを」するだとか「ライブハウスであらゆる曲が聴こえるたびにこれは海が見えるぞと叫んであらゆる女の子と接触をする為に酒を浴びるように飲む」だとかそういう本当に更年期を迎えるか迎えないかのところで人生の回想を始める俺のたらればであってこんなものはオンライン飲み会という大抵の自由が許されすぎて流行的にも自粛ムードの中でも飽和しきっているツールの中でももういい加減にsayである。

 

でもこんなたらればも馬鹿には出来ないし、嘘をつき続けることでそれが体に染みついてもしその嘘がバレてしまっても自動解離モードが働いてこれは他の何者でもなく事実であったと更年期の俺が話すように脳死寸前になることもあると最近思う。

 

生きている中で悲しいことや腹の立つことがあっても明日にはアダルト・スタンド・バイミーが出来るなら俺は別に構わないし、そう思うことによって救われることも多々である。

 

そういう思考に完全に追いついた時に宗教なんて馬鹿に出来るはずもないし、突き抜けた人生が待っているのかもしれない。別に突き抜けることが正解ではないけれどそういうところまで歩く可能性もあるということである。

 

ついていい嘘はついても良いとパンカスみたいな人間が唱えることしかり、バレなきゃ嘘ではないとぬかす半グレもしかりであるが。

ついていい嘘はないし個人的に嘘に助けられることはなくて今までこうだと思っていたことが次の一瞬には覆されることの連続なので嘘はつくな。

 

しかしアダルト・スタンド・バイミーがウケなかったようにウケると思って願い続けることによって自分の中に仮の嘘を発生させることはタダだし、定額を払わなくともできる行為なのでみんな嘘はジャンジャンつけよな!

 

という嘘。

 

 

離れて暮らす2人のために/スカート